1992年10月 機関誌「SOUND DESIGN」No.3
A Japanese girl in London
森下 美佳
音響科の学生として
6月はリージェンツ・パークのバラが咲き誇るロンドンで最も美しい季節です。その6月が来るといつも、初めてヒースロー空港に降り立った日のことを思い出します。ミュージカルでは最先端をいくロンドンで劇場音響を学ぼうと渡英したものの、日本での劇場および音響家としての経験が全く無かった私は、どうやって目的に近付こうかと暗中模索の日々でした。ブリティッシュ・カウンシル、図書館などを走り回った挙句、突然目の前に現れたのがCity of Westminster College- Theatre Sound Engineers’ course-の学校案内でした。
この学校はロンドン市ウェス卜ミンスター区が運営している公立の学校で、ABTT(英国劇場技術者協会)の後援により設立された劇場技術者養成コースを始め、看護士、カウンセラーから 学位が取れるコースまで、数多くの職業訓練コースを開設しています。入学資格は「16才以上」、「劇場で音響技術者として働くことに熱意を持っている者」この2つだけ。これなら何とかなるかもしれない、と早速コース主任の先生と面接の約束を取り付けたものの心臓はドキドキ、ロンドンには珍しく抜けるような青空がひろがる日で、「何でまたこんな日に」と恨めしく思いながらも面接会場へと向かったのでした。
入学試験は色覚・聴覚検査に引き続き、簡単な計算問題と専門知識問題7 問からなり、言語障害はなはだしい英語を駆使して答案用紙に向かいました。応募者100人の中から残るのは20人、実技中心のカリキュラムのため、20人を超えると授業そのものに支障を来たすとのこと、コース主任のミッチィ先生と勝負した結果、一週間後に「入学許可」の通知が届けられ 人生最良の日となりました。このコースのポリシーとして「男女差別、人種差別を無くすこと」、「国際色豊かにすること」が掲げられていましたので、私は初めての日本人学生、しかも女性であったことが幸いしたと思っています。あリがとう、ミッチィ先生。
ここは英国、日本と違い何と大胆な事。お産を終えた妊婦さんでも、出産後3時間も経たない内にシャワ一を浴びるようにとベッドから追い出されるそうです。私たちサウンドエンジニアの卵も講堂での簡単な入学手続きとオリエンテーションの後、すぐ各々に割り当てられた劇場、レコ一ディング・スタジオへと散って行きました。
ミッチィ先生のご尽力のおかげで、私たちが実習できる場所もナショナル・シアター、ロイヤル・オペラ・ハウス、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの本拠地バービカンセンターを始めとし、当時すでに10ヶ所以上に増えていました。
私は、その年の秋にインターナショナル・フェスティバルを企画していたナショナル・シアターでの実習が決まり、同級生のブライアン君とイソイソと出かけて行ったのでした。
劇場の舞台裏など見るのも聞くのも初めての私は、案内してくれるスタッフの後をヒョコヒョコ付いて歩くのが精一杯。オリヴィエ、リトルトン、コッテスローと3つの劇場をつなぐ迷路の中、無事に音響部の部屋にたどり着くだけでも大変でした。そんな中でランチタイムは唯一の楽しみ。ナショナル・シアターの中にある食堂はテムズ河が見渡せる素敵な空間です。「あれは有名な女優のミスXXだよ。あ、あれはこの間BBCのドラマに出ていた俳優の△△。ミカ、あんまりジロジロ見ちゃダメだよ。」と瞳を輝かせてブライアン君は教えてくれます。誰が誰だか全然わからない私は、英国人の顔はどれも同じに見え、教えられると かえってジロジロと見てしまいました。
ああだ、こうだと言っているうちに実習最初の一週間が過ぎ、講義を受けに学校に戻った頃には皆、もう半分サウンドエンジニアのような顔で教室に座っていました。オーディオ・エレクトロニクス、アコースティックス、音楽、デジタル・アプリケーション等の科目が月~木曜日の朝9時から夕方5時まで続き、金曜日は一日各自の実習の場へ。教わる方も大変でしたが(私に)教える方はもっと大変、の1年間。生まれて初めて触わるハンダゴテでMIDI BOXを作ったり、ドラマコースの学生が卒業公演に使うShow Tape(本番テープ)を作ったりと、120%フル回転の毎日でした。
2学期はロイヤル・オペラハウス、3学期はウェストエンド・ミュージカルの機材を一手に引き受けている音響機材レンタル会社のオートグラフ社での実習、と1年が過ぎるのはあっという間でした。こうして卒業試験の時期を迎えます。評定は普段のコースワーク6割、筆記試験、サウンド・プロジェク卜(多目的ホールのPAシステムデザイン)により行われます。男子15名、女子4名で始まったコースも卒業時には13名(内女子2名)、晴れてシティ&ギルドNo.182 Theatre Sound Engineerの資格を取得したわけです。人数が減ったのはドロップアウトした学生に加え、途中でサウンドエンジニアとして正式に就職した者、自分のライフスタイルに合わせてパ一卜タイ厶コースに移った者など、肯定的理由によるものが多いのも、このコースの特徴の一つといえます。
コース修了後も、修業はまだまだ続く・・・
サウンドエンジニアとしての資格は取得したものの、これだけではただの紙切れと同じ、劇場は実力と経験がモノを言う世界です。コース修了後も引続きロイヤル・オペラハウスに研修生として残り、リハーサルや音作りに参加させて頂いたりしました。またロイヤル・オペラハウス教育部主催の「音と照明で語る物語」というプロジェク卜を手掛けたのも懐かしい想い出です。会場を真っ暗にして「スペース・トリップ」、「ある女の一生」などを音響効果と照明のみで綴っていく趣向で、老人クラブ向けに企画したものですが、報酬はもちろん無し。しかし、帰りぎわに貰ったチョコレー卜と英国のおじいちゃんとおばあちゃんがしてくれた握手が何よりの報酬になりました。
これまでABTTのご厚意で 様々な実習の場を提供していただき、また昨年のジャパン・フェスティバルではロンドンに居ながらにして、日本の伝統芸能から現代劇まで間近に観ることができ、たいへん良い勉強をさせていただきました。現在はロンドンで活躍するサウンド・デザイナーの下、郊外のフリンジ劇場からウェス卜エンドの大劇場まで様々な場所を訪れ、研修を続ける毎日です。先日などは音楽学校の中にある小さな劇場のモニター・スピーカーのワイヤリング作業に出かけていきました。
また、Old Vic劇場で昨春より上演されているミュージカル「カルメン・ジョーンズ」にてradio-mic-runnerとして現場実習中です。ビゼーのオペラ「カルメン」を下地にしたパラシュート工場の女工カルメン・ジョーンズの燃える恋を横目に見ながら、今日もラジオマイクと格闘中です。Old Vic劇場はネズミも居るわ、リリアン・ベイリスのお化けも出るわ、という賑やかな劇場です。
ああ、夢と悪夢のブリテン島
英国内の劇場においては、まだまだ男性のサウンドエンジニアの方が多いものの、ロンドン、ウエストエンドではその比率は1対1。どの劇場でも必ずといって良いほど女性のサウンドエンジニアが働いています。彼女たちの何て輝いていること。キャストへの働き掛けなど、ソフトな対応という点では女性は有利? いやいや女性サウンドエンジニアに対する偏見はまだまだ根強い、など女性であることは有利か不利か、永遠の命題と言えそうです。
「The show must go on」という一言の下、共同作業を通し、また共通の問題を一つひとつ解決しながら同じ目的に向かって進むとき、あるのは性差ではなく、個体差ではないでしょうか。「真っ暗な舞台の上では芝居はできないが、音はなくても芝居は続けられる」と言い古された、サウンドエンジニアには少々屈辱的な言葉ですが、ここロンドンでは補聴器をつけているような老紳士でさえ、「いや~、今日の音は良かったね」と帰り際に声を掛けてくれたりします。また、公演終了後に一人の婦人が音響卓に近付き「私はバルコニーの中程に座っていたのだけれど 3幕目の女優の声が聞きとりにくかったわよ」と言えば、これが正にツルの一声。明くる日はスタッフ総出で舞台上にfloats (フロー卜=舞台端の集音マイク)を取り付け、バルコニーの天井に穴をあけて、スピーカーを設置するという素早い対応。音を大切にする観客とスタッフによってロンドンの音は作られ育てられています。
巨大なドブ河と化した母なるテムズ、8月に終わり8月に始まるといわれる長くて寒い英国の冬、わざとまずく調理したとしか思えない料理、そして劇場と家の往復で疲れ果てることもあります。そんなとき、サミュエル・ジョンソンの言葉を思い出します。「ロンドンに飽きたらそれは人生に飽きたということだ。ロンドンには人生の提供するあらゆるものがあるのだから。」夢、絶望、愛情、狂気、幸運、偏見、喜び、チャンス・・・そしてフィッシュ&チップス。種々雑多なものが混沌と存在するロンドン。ハロッズの前に立っている「マッチ売りのおじさん」や子供を腕に抱いたまま片手を差し出す「ホームレスのお母さん」を見ると哀しくなりますが、人間が本来の姿のまま生きていくことが許される街、それがロンドンの一番の魅力かもしれません。私は毎日、サウンドエンジニアを目指し自分の「音」を探すべく劇場通いの毎日です。
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「どのよう」に表現するかという手段やテクニックよりも、「何を」表現するかという感性を磨くことを忘れずにいたいと思っています。皆様もロンドンの「音」を聴きにいらっしゃいませんか。
【もりした みか:ロンドン在住】