山本 能久
(株式会社エスイーシステム代表)
第1項 まえがき
演劇公演における舞台制作の基本は、劇場に足を運んできた観客に対して、その観客が求めるもの以上満足させるために、作家、演出家、役者、装置、衣装、照明、音響効果等が一つの価値観を以て仕事をすることです。
各セクションの価値観が異なると、その公演は観客にとって満足する舞台とはならないでしょう。そのことは現在の商業演劇公演にしばしば見られます。それは今の観客は新たな価値観を持った舞台を求め始めている証拠といえるでしょう。そのような状況の中で、音響効果においてもその表現方法に対して様々な技術、ソフト開発が必要でしょう。しかし、どんなに技術やソフトが発達しても「効果」としての音響の基本は変わりません。それは照明も全く同じことがいえます。
例えばデジタルで、多チャンネルマルチで、SMPTE同期の装置を使って再生しても、演劇の音響効果の基本がなければ、それはただ単なるデモンストレーションになってしまう可能性があります。
そこで音響デザインはどのように組み立てていくのか、音響操作はどのようにするのかを、基本に立ち返って考えてみたいと思います。
第2項 音の表現
音響効果による表現の基本演劇における音響が表現することは、
これは電気音響に限らず、生音の効果音(歌舞伎の拍子木、ツケ、鳴り物など)でも表現されます。また、コンサートの音響においても同じことが言えます。歌手は主役、楽器演奏は脇役、音楽そのものはドラマです。つまり演劇となんら変わりません。表現方法が異なるだけです。
これらの表現方法は、例えば小説を読んでいると、目は本の文字を追っているのに頭にはその小説の情景が浮かんだり、笑ったり、涙を流したりした経験があるはずです。音を出すときこれと同じ感覚でイメージをして音を出すようにすることが基本です。つまり舞台で流される音は人の耳に聞かせるのではなく、観客のイメージを膨らませるように出すことなのです。
台本は「顔合わせ」の時点で手にすることが普通です。そのまま本読みに入る訳ですが、本読みのときに「ト書き」に書いてある音響効果とそのイメージを作り始めます。イメージの作り方のこつは普段、小説を読むのと同じ感覚です。イメージが浮かばないで効果音素材を製作した場合、その音は間違いなく「うそ音」です。「うそ音」はその舞台にとっては邪魔で、うるさく、観客にとっては全く不必要なものです。それは終演後のアンケートをチェックすればすぐに分かります。
音響プランナー、オペレーターにイメージがなく「形だけの音響」をすると結局は客離れを起こし、リピーター客が全く来ない要因の一つになるのです。音響には、それらに対しての全ての責任はありませんが、大きな要因の一つであることは確かです。
第3項 観客に対する効果
舞台で流される効果音や音楽などの観客に対する効果は、それら素材の製作時点で80%決まってしまいます。
スタジオで台本を読みながら素材を再生したとき、先ほどの小説を読むときに見えるイメージと同じように、イメージ(舞台ではありません)が見える素材であるかどうかなのです。イメージが見えないものは、どんなに再生装置が立派で高価なものであっても、観客はイメージすることはできません。
《妄想は自己完結し拡張性に乏しい。一方想像は他人を巻き込む力を持つ。見るに足る何かはその中から生まれる。アーティスト(もどき)は見せることに意識的ではない。スペースを使って妄想を企てることに興味の主軸はある。日常からはみでたところにいるマッチョな自分が愛おしいだけなのではないか。
そう感じる場面にたびたび出会う。そうして作られる作者には分かったつもりの舞台は、
他人には届かない。うまくできているつもりでも、妄想が役者にさえ伝わっていないときは目も当てられない。観客にとっては退屈極まりない作品となる。(中略)
見る者を納得させるために作品に固定された説明を求めているのではない。妄想ではな
く想像によって作り出された作品は、居合わせた観客にとってあれこれ想像する力と、解釈の自由性を生み出すように思う。》【田村 武(京都精華大学講師)P.A.N. Pressより引用】
ここでまず音素材の作り方を簡単に述べてみます。
1)情景描写
演じられている空間をイメージ化した素材の選択から始まります。素材編集時点でこのイメージを保つようにすることです。イメージが消えると舞台で再生しても観客には伝わりません。
2)時間設定および経過
演じられている時間(現在、回想、未来など)をイメージします。
3)場所設定
演じられている場所をイメージします。
4)心情表現
登場人物の台詞を言っているときの心の動きをイメージします。このとき大切なのはほとんどのオペレーターが「今言っている台詞に合わせよう」としていることです。実は、音響効果にとって本当に重要なことは台本上にある「・・・・」や台詞を喋っている俳優の相手の俳優に音を付けることなのです。こうすることによって観客のイメージは実際の台詞以上に膨らみます。
5)場面転換
前の場面をどの程度次の場面に引きずり込むかという転換の仕方をイメージします。
以上「イメージ化」と多く書きましたが、実際に舞台で役者が演じているのをイメージすることではないのです。実際の観客の目線とは異なったものです。例えば舞台上では絶対見えない筈の列車の走行が見えるとか、ある場面の劇場の空気が青色に見えるとか、といったイメージでのことです。
次にスタジオでイメージした通りのことを稽古場で再生しイメージ化できるかどうかをチェックします。役者が加わるとイメージが合わない場合が多々あります。そこでさらに新たなイメージ作りをし、修正を加えて最終的に稽古場で自分が再生する全ての素材のイメージを作り上げます。
さらに、稽古場の最後の通し稽古で出来上がったイメージには、すでにどのように再生するかといったハードのイメージも出来上がっていなければなりません。つまり仕込み図が頭の中にでき上がっていなければならないのです。
舞台は観客にとって常に「引き(ロング)」の映像です。しかし観客がイメージすることによって「アップ」になったり、大勢出演者がいるのに一人だけ(ワンショット)になったり、また「心の中」になったりして幾数もの場面を観客が想像できるのです。このイメージ化とそれを具現化する仕事を音響デザインといいます。
第4項 システムデザインと再生方法
そうして作られたイメージを基に、システムデザインをします。
ここでイメージ化ができていないとシステムデザインができないということが、今までの考え方で理解できるでしょう。また、図面を見ただけで、イメージ化された音が聞こえなければ、プランされたシステムで大丈夫かどうかの判断ができないということも理解できるでしょう。
結果として、イメージ化ができていれば、特殊効果機器を除き、機材に左右されることなくデザインできるはずなのです。
従って、仕込み図は建物内装工事図面と電気工事図面に近いものになります。機器の設置場所、向き、高さ、ケーブルの引き回し方など考えると、平面図と立面図、さらに各部詳細図が必要になります。これらの図面が書けることが、音響デザインができているということの基本になります。
一般的に「音響デザイン」というと最先端音響機器のシステム構築を指しているようですが、本来の「音響デザイン」とは舞台、空間の「音的イメージ空間の創造」のことです。
システム構築は「音響システムデザイン」というべきでしょう。「音的イメージ空間の創造」は電気音響設備が必須条件ではありません。そこが「システムデザイン」との大きな違いです。
音響デザイナーは「音的イメージ空間の創造」のために上演される演目の充分な理解、演出家の表現意図をはじめとして、ソフト制作の基本主旨の幅をふくらませるまで考えた仕ことが求められます。さらに空間の音響特性、音響機器の特性、効果を常に勉強し続けなければなりません。ゆえに音響デザイナーは、システムデザイナーの数倍の勉強量が必要だということになります。
音響デザインと音響システムデザインは全く別物で、音響デザインがきちんとされていなければシステムデザインはできないと先程述べました。このことを理解した上で音響操作をする訳ですが、音響操作の基本はイメージしたことを忠実に再生するように操作することです。このとき余計な「欲」、例えば「こうした方が受ける」とか「自分が納得しようとする姿勢」などを排除する必要があります。これらの欲はせっかく出来上がったイメージを壊すばかりでなく、本来の「音響による効果」の目的を見失ってしまいます。
といったことが実際にあります。これは「欲」を現実化するために「頭で考えようとする結果」、つまり「小手先」の解決方法では必ず失敗をするということを言っています。本当に良い結果を得るためには「欲」をそぎ落とした上でのイメージ化を心がけることです。
イメージ化されていれば音量、音質、定位などすべて分かるわけですから、仕込みも早く終わり、サウンドチェックも短時間で済みます。また実際のフェーダ操作、音のIN/OUTのきっかけも、このイメージのまま操作すれば良いのです。
ここで操作方法の実例として映画「ET」を考えてみます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/E.T.)
ETが少年達に軍実験施設になった家から救出され、自転車で母船まで送り届けられるシーンを思い浮かべてください。
軍関係者が自動車でETを乗せた自転車を追いかけてくるのですが、このときの音楽は当然、緊張感ある音楽です。これは誰に付いているでしょうか?
軍関係者? 少年達? それともET?
ほとんどがちょっと考えて「ETに付いている」と答えるのです。そして緊張感を表現しているとも答えます。
これは、本当の意味でイメージ化がされていない見本です。音楽が付いていない状態の映像がイメージされていないのと同時に、映像を「見た目」で判断した結果です。
それでは、この場面を小説で読むとどうなるでしょうか?
目は確かに文字を追っているのですが、
「早く!早く!後ろに迫ってきた」
「どなるんだろう、捕まっちゃうのかな」
「自動車が通れない丘の上に逃げろ!」
などと手に汗握って読んでいる位イメージを膨らませている自分がいるはずです。
映画に話を戻して、上記「」の部分は観客が自ら発したくなる「観客の台詞」を音楽で表現しているのです。したがって、音楽は観客の心情に付いていることが分かるでしょう。舞台で音響操作する場合は、この「 」の台詞をイメージ化し、この台詞が観客自身に聞こえるよう操作することです。
次にETの超能力で自転車がふわりと浮かびますが、ここで音楽はサビ(盛り上がり部分)に入り、さらに満月をバックに飛行するこの映画の象徴シーンになります。
音楽がサビになるポイントは観客が、
「よかった〜」
と思う瞬間なのです。それは自転車が浮く少し前、または少し後ろでもその効果は半減してしまいます。結局、効果音のIN点(再生するキッカケ)は一つしかないということです。
舞台では、生身の人間が演じているので言い回しのテンポ、テンションなどで効果音のIN点は毎日、異なります。しかし、その日の正解のIN点は一つなのです。
舞台で音響操作をする方へのアドバイスとして、以下の2点をあげておきます。
さらにこれらのイメージを観客のイメージよりも先行して心情、情景、時間、台詞と表現を舞台進行に合わせて瞬時に切り替えるようにします。
ひとりよがりの解釈は、観客には何も与えず、かえって不必要な音の羅列に終わります。
第5項 アマチュアとプロフェッショナル
以上の仕事ができる音響家が、本当のプロフェッショナルといえるでしょう。しかし、現実はプロフェッショナルとアマチュアの線引きの規定が曖昧です。
など色々な意見がありますが、現実は「業務用機器を正常に安全に扱えればプロフェッショナル」となっているようです。「舞台機構調整技能士」とか「玉かけ技能士」などの国家認定資格を見れば明らかです。
しかし、ソフト制作の部分でのプロフェッショナルは資格、規定は認定試験等で決められるものではありません。
プロフェッショナルとして認定するのは顧客、例えば演出家、制作担当者など仕事を依頼する「音響家以外の他人」です。この他人の評価が、まちまちだからこそ、本当の個性が必要なのです。このときの個性は音響機器とは一切関係ないことが分かるでしょう。
集積回路や電子部品の発達によって、今やオールデジタルの時代になってきています。音響の分野でもビンテージとしてのアナログ機器以外は、ほとんどデジタルに移行しました。
その結果どのようなことが起こったかといえば、「一般家庭内で、デジタル24chマルチトラックレコーディングができ、マスターとしてのDVDが焼け、それを本格的レコーディングスタジオへ持っていき、最終トラックダウンをする」といったようになったことです。
一流ミュージシャンであっても、アマチュアミュージシャンであっても、機器のグレード差はあれど、前者の「 」内の作業は同じになってきています。つまり、プロとアマチュアの区別が、デジタル技術の発達によって無くなってきたといっても過言ではないでしょう。
これを音響の分野に当てはめて考えると、やはり同じ結果になっていると言わざるを得ないでしょう。
CDプレーヤーを例にあげると、5,000円の民生機と100,000円の業務機の違いは何でしょうか?
以上、主な機能を列記しましたが、「単純に音を再生する」といったことだけを考えると、上記の機能差はDA変換による音質のグレード差ぐらいしか見つかりません。
たとえば劇場で「単純にBGMを再生する」とした場合、民生機のポータブルCDで再生しても、業務用CDプレーヤーで再生しても、そこに来場した観客にとっては全てプロフェッショナルの仕事と認識しています。機器の差は問題ではないのです。
ということです。
別な例えとして、5,000万円を最先端の舞台音響機材に投資した人がいたとします。そして音響会社を名乗れば、それでプロフェッショナルなのでしょうか?
一般社会常識からすると、とてもプロフェッショナルとはいえないでしょう。しかし現実に私たちの業界内では、プロフェッショナルとして、ある程度やっていける部分があるのです。
つまるところ、それだけ業界が未熟であるといえるでしょう。私がこの業界に入って25年、この状況は全く変わっていません。変わったのは、機材の異常な程の発達だけです。結果として、いかに先端の機材を持っているかという「営業」だけで仕事をしている現実です。そしてチーフへは技術(?)と経験を3年から5年積めばなれるというのも「音響家(ミキサー)としての人格の浅さ」を世の中に露呈しているのにも気づいていないのです。
「機材のトラブルのため音が出なかった」
「あんなスピーカの前に行くとは思わなかったのでハウった」
「残響が多い劇場だから音が作れない」
このような言い訳を何回聞いたでしょう。これがプロフェッショナルの仕事でしょうか?
そして、その状況を他のスタッフ、出演者は当然見ています。それ故、舞台ではいつまでたっても地位的に一番下なのではないかと思う次第です。
私たち音響家の音響工学的な知識は、音響機器メーカーの電子技術者が持っている電子回路、スピーカー設計などの知識よりも劣ります。
私たち音響家の芸術的能力は、ミュージシャンやアーティストが持っている芸術性よりも劣ります。
「我々は音を作っている」と主張する人がいますが、「音を作っているのはアーティスト」なのです。
アーティストが創造した音楽を記録、または再生する際、「音響技術者が音を作っている」というのは、とんでもない間違いであり、アーティストに対して失礼に当たるし、奢りも甚だしいと思います。
「これが俺の音だ」と主張する方。今、出ている音は機器の組み合わせによる結果じゃないでしょうか?
スピーカが変われば音は変わるのは当たり前のことで、指定した機材がないと音が作れないのは「音楽をしていない」ということです。また、そのアーティストの音楽性をも理解していないことです。BEATLES を750円のスピーカで聞いても、100万円のスピーカで聞いてもBEATLESである、という簡単な命題の答えを得ていないのと同じです。
ここにプロフェッショナルとしての基本があると思います。
どのようなシステムであっても、そのアーティストの持っているサウンド、芸を生かすことができる音響技術者が本当のプロフェッショナルです。
この部分がメーカーの電子技術者、アーティストにはできない仕事です。
プロフェッショナルの音響家の仕事は、
が最低限の仕事です。さらに、
が求められ、きちんと結果を出すことです。
第6項 あとがき
デザインとは白紙状態から最終の仕上がりまでを創造することです。
舞台での音響効果もこれと同じです。
客入れが白紙で、客出しが最終仕上がりです。コンピュータのグラフィックソフトの中にレイヤーという機能がありますが、まさに、このレイヤーを何枚も重ねて、1枚の絵を完成させるといった仕事に似ています。たった1枚のレイヤーのイメージが異なっていれば、完成の絵もイメージが異なったものになってしまうことが分かるでしょう。また、その仕事をするのはWindows、Macintoshのどれを使っても、出来上がった作品には何ら関係が無いことも分かるでしょう。
音は目に見えないものです。そして、音響効果としての評価は観客一人一人異なり、音の存在は人の脳の一般記憶領域には残らないのです。別の記憶領域に残るのです。
故に、それは常に呼び戻されるのではなく、何かのきっかけがあって、初めて呼び戻されるのです。「音は耳に聞かせるのではなく、心に聞かせる」と言うことは、このことをいっているのだと思います。
【山本 能久(1級音響技術者)】